カテゴリー「歴史」の78件の記事

2019年4月20日 (土)

五山文学と梁山伯と祝英台!?

Photo_37 梁祝(リャンチュウ)愛情故事の更なる調査・研究を続ける渡辺明次先生
調べ事で今日は国会図書館に行くので、夕方神田で会えないか?との連絡が。

Photo_39昨年参加した、中国・宜興で開催された「梁祝演劇祭」に招聘くださった、路暁農先生からの依頼だそうだ。

夕方4時、ここは神田の居酒屋、「清龍(神田店)」。先日入った池袋本店の支店で渡辺先生お気に入りの店です。

先生は早速、今日の収穫をテーブルに広げ「今の段階では希望の全てが見つかったわけではないが」と言いつつ、語り始めたのは『五山文学』の説明。

Photo_38『五山文学』とは、鎌倉時代末期から室町末期、京都・鎌倉の五山禅林を中心に、禅僧の間で発達した漢文学の総称で、中国宋の禅林で詩文が盛行し、日本から学僧が渡宋、また中国の禅僧が帰化するようになり、僧侶の間に漢詩文が流行。後に、双璧(義堂周信 と絶海中津)の出現により盛況をきわめた。というもの。

 しかし、年代が全く違う「梁祝愛情故事」とどんな関係があるのか?私の疑問に対し、実はそれが渡辺先生のミッションで、国会図書館でこんな漢詩文を見つけてきたのです。上の写真は部分アップですが、左から祝英臺墓、良三伯墓(梁山伯墓の間違えか?)、そして羲之故居)

 Dvd_3 えっ!?右端の羲之故居とは書聖・王羲之の名ではないのか?私は驚き疑問を投げかけました。
これから先生が研究されるので、今日はここまでですが楽しみですね~

Wan梁祝故事と王羲之は4世紀に実在した訳だが、五山文学は13~16世紀。こんなに時間を隔ててまで名前が並んで登場するとは、何という因縁か。

「梁祝」と「五山文学」の関係は、かなりの学者さんでも知らないでしょう。と渡辺先生(笑)

Kimg0013 ところで余談ですが、私が敬愛する一休宗純(とんちの一休さん)の著書『狂雲集』も広義では五山文学に入るそうで、
私の知る限り、室町後期の社会は僧侶たちの堕落が横行し、嘆き、憂慮した一休は自ずから不良禅僧と化し編纂したのが『狂雲集』。
うろじより むろじへ帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け <一休宗純>
※有漏路(うろじ)とは現世(この世)、無漏路(むろじ)とは来世(あの世)。

 

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2019年2月22日 (金)

「顔真卿(がんしんけい)」展へ、上野・東京国立博物館(明後日まで)。

書聖・王羲之の「蘭亭序」と同様、書を学ぶ人で顔真卿の「祭姪文稿」を知らない人はいないでしょう。その説明は、こちらの顔真卿サイトがわかりやすい。

Photo最終日ぎりぎりになったけど、土日は混むから今日しかない!と、行ってきました。
時間も早め、朝9時半の開館前に到着するように家を出た。しかしそれでも甘かった、既に長蛇の列ですよ!!
チケット買うのに30分、平成館の前で20分、そして目玉の「祭姪文稿」を観るのにも
並ばねばならない。さらに60分くらいかかったでしょうか。

Photo_2つまり、ここに到着してから2時間近く並んでるだけ、まだ何も観ていないのです。
とはいえ朝一番に来て良かったわけで、時間が経つごとにさらに混んできています。

Photo_3ところで気がついたら、周囲は殆んどが中国人なのです!
但しマナーが悪い人は全く見かけません。
なぜ多いかは、中国と台湾の大手メディアがニュースで大きく取り上げたことと、ネットでは「中国人が一生観れるかどうかわからないのに日本で公開するなんて」など批判的な声もあり、賛否両論、話題になったらしい。

Photo_5中国人にとって、この「祭姪文稿」は特別な存在だという。
当時(758年)の歴史資料としても、とても貴重なもので、確かに、王羲之の「蘭亭序」は模写しか現存していない」のに対し、顔真卿の「祭姪文稿」は、1949年に蒋介石が北京の故宮博物館(紫禁城)から台北の国立故宮博物院に持ち込んだ国宝の一つだが、紙の劣化(破損)を懸念し、ここ10年以上公開していないそうだ。

Photo_7私は、両方の故宮に行ってお宝を拝観したことがありますが、北京の故宮はスケールこそ大きいが、中身は台北よりずっと劣るのは周知のとおり。

会場で中国人たちの多くは「書」として観ているというより、書かれている漢語を読んでいるのでは?
そんなことも「なるほど」と勝手に納得。(笑)

とにかく、あの「祭姪文稿」を目にするチャンスに巡り会え、混み具合も気にならず真剣に鑑賞できた展示会でした。(^_^)v

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2019年1月12日 (土)

いよいよ来週土曜日、梁祝(リャンチュウ)伝説の真実に迫る講演

昨年末にお知らせしましたが、いよいよです!(1月19日土曜、午後2:00~)

渡辺明次先生(日本梁祝会会長)は、中国・四大愛情伝説の一つ「梁山伯と祝英台(梁祝伝説)」を日本に初めて紹介した研究者。(写真は横浜講演での渡辺先生)

02_2その渡辺先生曰く「実はこの梁祝愛情故事は単なる伝説ではなく、4世紀の時代に起きた真実であった」
という発見!そこまで突き止めたからこそ、人民日報が"梁祝研究の第一人者"と格付けたのです。

この物語は中国人の殆んどが知っているというが、真実は誰も知らなかったそうで。

Photo_4今回の講演は、中国・寧波にある1100年代の石碑を読み解いたことで、梁祝伝説が真実である根拠となり、謎を解明することができた、というもの。

←左は寧波で撮って来たその石碑。

二行文は、石碑文中の重要な一節をパソコンで切り取って拡大したものですが、中国・寧波での講演で、私が揮毫した同文(上の写真の壁に貼ってある)を渡辺先生が手にし熱弁されました。

Photo_3これは、梁山伯が農民とともに役人として働く壁画→
寧波でこんな壁画まで見つけた渡辺先生は大興奮したという!
1500年も昔の出来事を今に明かす夢のような話です。

講演会後の新年会には、福島から福島県日中友好協会の山田明生会長、また、別の用事と掛け持ちで駆けつけてくれる人や、興味を持った方の初参加希望者など、こちらもまた楽しみです。

いよいよです。(^_^)v

主催者より-------------------------------------------------
[主催]日中翻訳学院
[日時]2019年1月19日(土)午後2時~4時(1時半~受付)
[会場]IKE・Bizとしま産業振興プラザ(旧勤労福祉会館)第三会議室:
東京都豊島区西池袋2-37-4 
(アクセス)http://www.toshima-plaza.jp/access/ 
[参加費]1000円
[申込方法]メールで日中翻訳学院事務局( fanyi@duan.jp )宛に、
お名前、職業、連絡先(住所・電話番号)をご記入の上、お申し込みください。

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2018年9月24日 (月)

中秋の名月と十五夜の月。

写真は、自宅の窓から雲の切れ目を待ち続け、なんとか「中秋の名月」をゲット!
デジカメなので鮮明さは皆無だが、これもまた風情でよいものでしょう。(笑)

月見れば 影なく雲に つつまれて 今宵ならずば 闇に見えまし」西行『山家集』より
東京で見えた今宵の月はこんな心情でした。

Photoしかし、これは満月ではない?!
国立天文台(NAOJ)によると、「今年は9月24日が中秋の名月、翌日の9月25日が満月」
このように、中秋の名月と満月の日付がずれることは、しばしば起こります。

だと。
歴史を調べてみると、これも興味深い。
日本で初めての月見の宴は九月十三夜。記録に残る日本で初めての月見の宴は919年、古今和歌集の編纂を命じた醍醐天皇の時代に催された。
だがなぜか中秋の名月ではなく、九月十三夜の月見。
九月十三夜の月を愛でる慣習は中国にも朝鮮にもない日本独自のものだとか。
ただし十三夜の月を選んだ理由は定かではない。

理由はともかく、秋の夜に輝くお月様が遠い昔の雅な夢を魅せてくれました。(^_^)v

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2018年8月 2日 (木)

「特別展」明治~昭和、近代書道の人々。

「毎日書道展」へは先週友人が再入選を果たしたので応援で見に行きましたが、そこは上野・東京都美術館。
今日は、同時開催している六本木・国立新美術館へ。前の招待券が使えるそうで。

Photo明治~昭和にかけての書道家の代表作を展示した、第70回記念の特別展『墨魂の昴』。
文人・政治家・宮家も含め、 錚々たる人物(64人の作品)が広々とした一室を埋めている。
その中で、西郷隆盛や大久保利通は名筆家でないけれど是非見たかった。

そもそも日本の近代書道は、明治13年、楊守敬が中国から持ち込んだ1万数千点の書によるもの。日本の(明治の)書道家たちはカルチャーショックを受けたのです。

それ以来、現代書道という取り組みが為されているわけですが、日下部鳴鶴をはじめとした大御所たちの真筆も目にしたいところで期待をこめて観賞して参りました。

Photo_2"写真撮影禁止"とあるので、残念ながら載せたのはチラシの写真ですが、実は、真筆を拝見するもなぜか感動するものがない。
西郷隆盛がお得意の「敬天愛人」も今まで写真で見たものをただ確認しただけ。↑

何て、私の見る目がおかしくなったのかもしれませんが、過去に写真版で見てきたものと現物とのギャップがない、自分の中で刺激がなくなっているのです。

Photo_3中林悟竹の「慈恵」、比田井天来の「龍跳」の大字もしかり、書道博物館の中村不折や副島種臣など形にこだわる書も飽きた。
ただし、感動したのもありますよ、西川春洞の隷書、安東聖空の仮名などは奇をてらっていなくて上品。
巌谷一六も良い、真筆がズシッと伝わってきます。

もちろん私の好き嫌いですが。どちらにしても、とても良き勉強になりました。(^_^)v

さてこれから、徒歩で中国大使館へ映画を観に!?行ってきます。(つづく)

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2018年4月30日 (月)

梁祝(リャンチュウ)愛情故事と、東晋の「書」。

こんな言葉があります、「六朝(りくちょう)の書、唐の詩、宋の画」。

Photo←我ら「梁祝会」の阿久津先生は、単身で上海観光を楽しみ、
その傍ら、先日の宜興市(中国・江蘇省)での戯曲「梁祝」舞台公演にも立ち寄り、楽しんで来られたようで。

最近、中国の書にも関心を抱かれ、上海博物館などでの情報を度々私に送ってくれます

梁祝愛情故事は"伝説"でなく、東晋の時代に会稽地区で起きた真の出来事だと。
約10年前に渡辺明次先生(梁祝会長)が、中国人も驚く論文を発表し、上梓して日本に紹介した最初の人ですが、
その話と"東晋の書"との関わりを知り、大いに興味を持ったのが私なのです。

Photo六朝(りくちょう)時代は貴族の世界。
東晋の宰相(謝安)と、悲劇のヒロイン祝英台の本家(祝家)は同じ上虞市にあり、親交が深かったという。
謝安は「梁祝」の事件を知り、祝英台の死を称え、義婦と命名し朝廷に上奏。事実その碑(義婦塚)↓が現存している。

Photo_4さらにこの史実を探っていくと、書聖・王羲之も登場するのだからほおっておけない!(笑)

阿久津先生はさすが研究熱心、王羲之や息子の王献之だけでなく、先日はメールで「謝安(しゃあん)は中国で書家としても知られているようです」と。

S私は昔から、謝安と王羲之は共に政治より詩や書を嗜むほうが好きということに惹かれていました。
ただし謝安は、会稽の名士たちのなかで第一の傑物と一目おかれ、
遊ぶ時はきまって数人の伎女を従える大通人だったと。(明の郭翊筆・謝安游東山図)→

Photo_2↑当時、渡辺先生が上虞の陳秋強(中国英台文化研究会)会長を訪ねた時、頂戴したという『上虞名人遺墨』を、私が譲ってもらったのですが、前半部分に謝安とその書(毎念帖)が載っています。

Photo_5実は後で知ったのですが、この本を編纂されたのが、今回書を頼んだ陳会長だったのです。

ところで、ふつう中国人名を日本では、王羲之(おうぎし)、謝安(しゃあん)などと日本語のルビで済ませます。
それだと「梁祝」の二人の主人公は、梁山伯(りょうざんぱく)と祝英台(しゅくえいたい)と読みますよね。
しかし我々は、梁山伯(リャンシャンボ)、祝英台(チュウインタイ)と中国語読みにして、二人の頭文字を梁祝(リャンチュウ)と読ませています。
その理由とは?
渡辺先生が(水滸伝の)梁山泊と間違えられるのが困るのですと。(^_^)v

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2018年3月28日 (水)

書聖・王羲之の故里からのお土産は、「蘭亭序」の拓本。

先月、我ら「梁祝会」の阿久津先生が、書聖・王羲之の故里(中国・山東省の臨沂)を
見学
し、私に買ってきてくださったお土産の"拓本"です。

02王羲之の最高傑作、かの有名な「蘭亭の序」。→

後の皇帝(唐の太宗)が王羲之の書を溺愛し、真筆を全て没収したので、現在、王羲之の書とあるものは全て模写です(模写した人達も能書家)。

さらにそれを石に彫る中国の職人の技術は凄いもので、印刷とは違う手触り(深い凹凸)には気がどよめきます。

下の写真を拡大してみると、拓本の方(右半分)の凹凸感がよくわかります。

00_3お土産の拓本の元の書家は、馮承素(ふうしょうそ)。

この方は殆ど無名だが、初心者が習う上では最も適しているというのか?確かに、私も手本として習った中で、初唐の三大家(虞世南・欧陽詢・褚遂良)の臨書よりも鮮明で真似しやすい。
(写真左が昔学んだ法帖、右が今回のお土産の拓本)

王羲之(303年生まれ)の本籍は(山東省)臨沂ですが、建康(現在の南京市)で育ち、人生の大半は、建康~臨川~武昌~会稽で官僚生活を過ごしています。
最終的に会稽(紹興市)で逸民生活に入り一生を終える。
よって、主な書は殆んどが紹興酒で有名なこの地で書かれたもの。

拓本を手にすると、なぜか本物を味わえた気がします。
10年前には、世界遺産の龍門石窟に行かれた渡辺先生(梁祝会会長)から、北魏の時代の書『龍門20品』の拓本をいただきました、もちろん大事にしております。
そして今回は阿久津先生、本当にありがとうございました。m(__)m

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2018年3月22日 (木)

今日の「たいとう区報」は桜名所、不忍池競馬もあり!?

0320毎月5日と20日発行の広報紙「たいとう・3/20号」は、"桜の名所"特集です。
「台東区は今も昔も桜の名所」との見出しで、上野、浅草、隅田川など桜風情の浮世絵が満載です。
(台東区中央図書館蔵)。

広報紙はどの区でもあるでしょうが、歴史ある台東区のピカイチは上野・浅草。
文化施設も、世界文化遺産に登録された西洋美術館はじめ、東京国立博物館、東京藝術大学、書道博物館、朝倉彫塑館、樋口一葉記念館など数えたらきりがない。

Photoその中でも知らなかったことが、中ページの浮世絵にありました。
←なんと、不忍池で競馬をやっていた!その絵がこれ。「新版不忍池けいば」歌川国利(明治22年)

例のごとくウィキペディアで調べると、
上野不忍池競馬(しのばずのいけけいば)は1884年(明治17年)から1892年(明治25年)まで東京上野不忍池で行われていた競馬。共同競馬会社主催で、不忍池を周回するコースで行われていた。
馬券は発売されずギャンブルとしての開催ではなく、屋外の鹿鳴館ともいうべき祭典で明治天皇をはじめ華族、政府高官や財界人を含む多くの観衆を集め華やかに開催された。

とのことで、浮世絵だけでなく当時の写真も掲載されています。

さらに読むと興味深いことたくさん、浮世絵にも感動、わが町に乾杯!(^_^)v

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2017年12月17日 (日)

超アナログ的「干支の早見表」。

来年の干支の文字を色紙に何枚も書いてきましたが、今日はシンプルに「戌(いぬ)」この一文字。

00さて、来年の干支、戊戌(つちのえ・いぬ)に固執しているうちに、私物の資料で見つけたのが下に載せた「干支早見表」です。(少し見やすく改造しましたが…)

検索サイトで「干支早見表」と打ち込むと、ここ百年くらい前からの一覧表が出るだけ。
スマホには良い計算アプリがあったけど、干支からの逆算ができなくて一部不満足。

で、超アナログ的なこの表は面白い。↓

例えば「2018年の干支は?」の場合、
①一番上の表から千の位(2)と、百の位(0)が入っているグループ(C)を見つけ、
②次の表のC欄にある十の位(1)と右欄(8)とが交差したものが答え(戊戌)です。

Photo_5この表では西暦0年(庚申)から2899年(己卯)までわかります。
尤も、自分で計算して表を増やせばさらに遠い未来まで。

逆に、
唐の能書家・顔真卿の書「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」が記された年を調べる。

(そもそもこれを思い出してから干支の書を書き始めたのですが…)

記された年の干支は来年と同じ「戊戌」だから、百の位が想像つけば、あとの年は割り出せます。
①顔真卿は8世紀の人だから、百の位は7でB欄、
②戊戌の欄は一の位が8だから、それをたどって十の位のB欄と交差させると5と解る、結果は758年ですね。

まあ、慣れてくればこれも重宝することになるでしょう。(^_^)v

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2017年10月15日 (日)

昨日のシンポジウムのあとは、ミニ「梁祝会」。

昨日のシンポジウムのあと、我ら3人は本郷三丁目界隈の居酒屋を求めフラフラと。

結局シンポジウムの話題から離れ、ミニ「梁祝会」となりました。(笑)
(写真右端は、渡辺先生が高校教師時代の同僚で、阿久津先生)

301ここで繰り広げられた話題は、私が書いた先日のブログ、「壁に書かれていた王羲之の「姨母帖」と「初月帖」!」について新事実がわかったからです。

このことに渡辺先生も関心を持ち、「上虞祝府の王羲之の書に関して、なぜあそこにあの文字があるのか?」と、現地に質問してくれたのです。

返事:写真の前にある人物は王羲之で、書はその通り王羲之の作品「姨母帖」と「初月帖」です。
それがここにある理由は、祝府テーマパークに芸術的雰囲気を醸し出すためと思います。文の内容は祝英台(チュンインタイ)と関係ありません。とのこと。

Photo_6そうですか、男の人形は祝英台の父親かな?と思ったけど間違えでした。王羲之そのものだったのですね。

ただし私の疑問はもうひとつ、右から3行目の文字「姨母」が、壁の模写では「姨女」になっている件です。

(左が現地資料館の展示物の写真、下の画像は原本の部分アップ)

Photo_8これについても渡辺先生が質問を送ってくださいました。

先方は驚き、さっそく会長および研究者に連絡を取り、分析と見解を求めた結果、なんと資料館側の間違えだそうで、その経緯と理由も伝えてきました。
同時に、指摘をした渡辺先生への敬意と感謝の辞が添えられていたのです。

中国人は一般的に己の否を易々と認めないそうです。しかし、先方のこの謝辞は渡辺明次先生への信頼がいかに厚いかを物語っていると思います。

ところで、祝府の陳秋強会長からこの問題とは別の驚くべき新事実を知らされ、(それは東晋の時代の「書」に纏わることでもあり)、私の好奇心が再燃しました。
あまりに奥深い展開なので、渡辺先生の日本語翻訳文をもとに、後日、改めて紹介させていただくつもりです。(^_^)v

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